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M-Tea*4_11-地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒 2011.10.8 第四巻 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第四巻 第一一号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/165203) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (504KB) 定価:200円 p.106 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(32項目)p.126 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. じちんプイプイ、週刊ぱみゅぱみゅ* 出羽の柵址と見るべきものが発見されたのは昭和六年(一九三一)のことである(『史跡調査報告第三』「城輪柵址の部」参照)。この城輪柵址が往古の出羽柵に相当すとの考説は、地震学の角度から見ても容疑の余地がないようである。 城輪柵址は山形県飽海郡(あくみぐん)本楯村(もとたてむら)大字城輪(きのわ)を中心として、おおむね正方形をなし、一辺が約四〇〇間あり、酒田市から北東約八キロメートルの距離にある。掘り出されたのは柵材の根株であるが、これが完全に四門や角櫓(すみやぐら)の跡を示している。 この柵址が往古の出羽柵に相当すとの当事者の見解は、地理的関係にあわせて、秋田城内の高泉神とこの柵の城輪神が貞観七年(八六五)と元慶四年(八八〇)とにおいて同時に叙位せられた事実などに基づくもののようであるが、蛇足ながら余は次の諸点をも加えたい。 一、場所が海岸線から約五キロメートルの距離にあり、しかもこの海岸地方は、酒田市北方から吹浦(ふくら)に至るまで、(略)急性的にも将(は)た慢性的にも、著しく沈下をなす傾向を有す。しかもこの傾向は奥羽海岸地方中においてこの小区域に特有されていること。 奥羽沿岸における精密水準測量の結果として過去三十余年間における水準変化に、沈下量一〇センチメートル、その延長距離一六キロメートル以上に達する場所を求めるならば上記の酒田以北吹浦に至るまでが唯一のものであるが、しかもそのうち日向川(にっこうがわ)以北およそ五キロメートルの間は三十三年間に約二〇センチメートルほどの漸進的沈下をなしたのであって、かくのごときは日本全国においてきわめて稀有の例である。これすなわち城輪柵址にもっとも近き海岸であるが、この地方を除き、奥羽沿岸の他の地方は大地震とともに一般に隆起をともなう経験をもっている。(略) これを要するに、城輪柵址のある辺りは著明な沈下地帯であるが、もし試みに、大地震にともない、海岸線が著しく内陸に侵入するほどの沈下をなすべき地域を奥羽西海岸に求めるとしたならば、それは上記区域を除いては他に求められないであろう。(略) 4_11.rm (朗読:RealMedia 形式 568KB、4'36'') milk_tea_4_11.html (html ソーステキスト版 116KB) 今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1) 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。 ◇参照:Wikipedia 今村明恒、『日本人名大事典』(平凡社)。 底本:『雑誌荘内』第2巻第14号 1939(昭和14)年3月 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学) http //yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html 難字、求めよ 坂上茂樹 さかのうえの? 大宿祢。出羽国守。 漲移 ちょうい? 梟禽 きょうきん? 黎※[#「田+亡」] れいぼう? りぼう? 民狄 みんてき? 曲折断層 維勝城 → 雄勝城(おかちのき)か。秋田。 高泉神 小藤博士 → 小藤文次郎か。 小藤文次郎 ことう ぶんじろう 1856-1935 地質学者。島根県生れ。東大教授。日本の古期岩類を地帯構造区分し、火山調査に指導的役割を果たして日本の火山学の確立に貢献。濃尾地震で断層地震説を唱えて注目された。 金の浦 → 金浦(このうら)か。 東山 樋の口 ひのくち? 本楯村。 西浜 むしとりホイホイ 文徳寶録 → 文徳実録 【実】 甲戍 → 甲戌 【戌?】 精査 → 調査 【調?】 は阯 → 址は 【?】 日光川 → 日向川 【向?】 月向川 → 月光川 【光?】 區城 → 区域 【域?】 著し → もし 【若し?】 底本は左辺のとおり。右辺に置き換え、もしくは編者注をほどこした。 スリーパーズ日記 鳥海山噴火のことを探っていたところ、今村明恒の名に目が止まる。残念ながら期待の鳥海山には触れていなかったが、大きな収穫が一つ。 文化元年(一八〇四)象潟隆起は有名で、すぐそばの庄内地方もてっきり隆起傾向にあるんだろうと早合点していたが、今村ははっきりと「城輪柵址のある辺りは著明な沈下地帯」「日本全国においてきわめて稀有の例」と断言。 局地的な傾向……ということは、プレート全体の沈み込みということではなく、鳥海山直下のマグマだまりか伏流水か、あるいは砂丘の堆積物か何かの影響だろうか。 予定を変更して、変則ながら『喜田貞吉著作集』の目次を入力公開することに。当巻は随筆や紀行文・日誌から成り立っているので、専門的な論考よりも肩ひじがはらず読みやすい作品がならんでいる。 震災を経て、ますます喜田貞吉の復刻をすすめたいと思うようになった。歴史家・東北文化研究者である彼は、自然災害をどのように経験し記述したのか。 せっかく今村明恒が「城輪柵跡」に言及してくれたので、次号より念願の喜田貞吉「庄内と日高見」を連載開始することにします。さて喜田貞吉の見立てや、いかに! 10.6 Steve Jobs 死去、56歳。 10.5 23 33、熊本県菊池市5強。 10.3 月山、朝日岳、初冠雪。 2011.10.9:公開 玲瓏迷人。 猫舌毛野一族。寒露。 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 「彼は三日目によみがえり、そして神になるだろう。」 -- しだ (2011-10-09 06 12 59) 名前 コメント
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もしも著作権保護期間が70年だったなら シミュレーション もしも著作権保護期間が70年だったとするならば、2009年現在では、1938〜1958年没の著作者の保護期間がまだ継続していることになる。週刊ミルクティ*バックナンバー(vol.1 no.1〜vol.2 no.17)で保護期間を経過した(=パブリックドメインに該当する)著作者は、紫式部から和田万吉までの十一名のみとなる。浜田青陵・喜田貞吉をはじめとする二十五名が1938〜1958年没に該当するため、パブリックドメインとしてのデジタル復刻は不可能となる(国会図書館でのデジタル復刻をふくむ)。 菊池寛・楠山正雄が訳した『奇巌城』『美し姫と怪獣』『長ぐつをはいた猫』、与謝野晶子・池田亀鑑が訳した『源氏物語』『堤中納言物語』も保護期間内に該当するので、同じく“パブリックドメインとしての”デジタル復刻は不可となる。 仮に保護期間が70年で、プラス、サンフランシスコ講和条約にもとづく戦時加算が適用されたばあい、イギリス国籍のコナン・ドイルには、3794日分が加えられる。2009年現在、「シャーロック・ホームズ」シリーズもそのボーダーライン上となる。 ちなみに、近日発刊予定の大川周明(1957年没)『清河八郎』も保護期間内に該当することになる。 保護期間(没後70年)経過 1937年以前没 紫式部 むらさきしきぶ ?-? ペロー Charles Perrault 1628-1703 ヴィルヌーヴ夫人 de Villeneuve, Gabrielle-Susanne Barbot 1695-1755 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 森 林太郎 もり りんたろう 1862-1922 芥川龍之介 あくたがわ りゅうのすけ 1892-1927 小酒井不木 こさかい ふぼく 1890-1929 アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle 1859-1930 桑原隲蔵 くわばら じつぞう 1871-1931 宮沢賢治 みやざわ けんじ 1896-1933 和田万吉 わだ まんきち 1865-1934 保護期間(没後70年)内 1938〜1958年没 浜田青陵 はまだ せいりょう 1881-1938 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 小熊秀雄 おぐま ひでお 1901-1940 モーリス・ルブラン Maurice Leblanc 1864-1941 工藤梅次郎 くどう うめじろう 1887-1941 与謝野晶子 よさの あきこ 1878-1942 北原白秋 きたはら はくしゅう 1885-1942 幸田露伴 こうだ ろはん 1867-1947 中山太郎 なかやま たろう 1876-1947 菊池寛 きくち かん 1888-1948 島津久基 しまづ ひさもと 1891-1949 海野十三 うんの じゅうざ 1897-1949 森 繁夫 もり しげお 1882-1950 楠山正雄 くすやま まさお 1884-1950 福井久蔵 ふくい きゅうぞう 1867-1951 宮本百合子 みやもと ゆりこ 1899-1951 安藤正次 あんどう まさつぐ 1878-1952 池内宏 いけうち ひろし 1878-1952 斎藤茂吉 さいとう もきち 1882-1953 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953 橘 純一 たちばな じゅんいち 1884-1954 恩地孝四郎 おんち こうしろう 1891-1955 坂口安吾 さかぐち あんご 1906-1955 池田亀鑑 いけだ きかん 1896-1956 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958 存命中 大久保ゆう おおくぼ ゆう 1982- ※ ペロー、ヴィルヌーヴ夫人、モーリス・ルブランはフランス国籍、コナン・ドイルはイギリス国籍につき、戦時加算3794日が適用。 パブリックドメイン (public domain) 著作物や発明などの知的創作物について、著作者や発明者などが排他的な権利を主張できず、一般公衆に属する状態にあることをいう。日本語訳として公有という語が用いられることがあるが、日本の法令上、地方公共団体が所有する財産のことを公有財産ということもあり、訳語として適切ではないという意見がある。 パブリックドメインに帰した知的創作物については、知的財産権が誰にも帰属しない。そのため、所有権など他の権利を侵害する態様で利用されない限り、その利用を排除する権限を有する者は存在せず、誰でも自由に利用することができる。 ◇参照:Wikipedia「パブリックドメイン」より。 ※ 『広辞苑』(第六版)には「パブリックドメイン」の項、存在せず。 2009.11.21:公開 2011.7.23:更新 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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週刊ミルクティー*著者名(五十音順) 秋田 滋 あきた しげる 取得中です。 芥川龍之介 あくたがわ りゅうのすけ 取得中です。 有島武郎 ありしま たけお 取得中です。 安藤正次 あんどう まさつぐ 取得中です。 池内 宏 いけうち ひろし 取得中です。 池田亀鑑 いけだ きかん 取得中です。 石川千代松 いしかわ ちよまつ 取得中です。 泉 鏡花 いずみ きょうか 取得中です。 伊藤左千夫 いとう さちお 取得中です。 伊藤野枝 いとう のえ 取得中です。 伊波普猷 いは ふゆう 取得中です。 今井半次郎 いまい はんじろう 取得中です。 今村明恒 いまむら あきつね 取得中です。 宇野円空 うの えんくう 取得中です。 海野十三 うんの じゅうざ 取得中です。 大川周明 おおかわ しゅうめい 取得中です。 大久保ゆう おおくぼ ゆう 取得中です。 大杉栄 おおすぎ さかえ 取得中です。 岡 落葉 おか らくよう 岡本綺堂 小熊秀雄 おぐま ひでお 取得中です。 折口信夫 おりくち しのぶ 取得中です。 恩地孝四郎 おんち こうしろう 取得中です。 片山広子 かたやま ひろこ 取得中です。 菊池 寛 きくち かん 取得中です。 喜田貞吉 きた さだきち 取得中です。 北原白秋 きたはら はくしゅう 取得中です。 楠山正雄 くすやま まさお 取得中です。 工藤梅次郎 くどう うめじろう 取得中です。 桑原隲蔵 くわばら じつぞう 取得中です。 幸田露伴 こうだ ろはん 取得中です。 河野常吉 こうの つねきち 取得中です。 小酒井不木 こさかい ふぼく 取得中です。 小島烏水 こじま うすい 取得中です。 小村雪岱 斎藤茂吉 さいとう もきち 取得中です。 坂口安吾 さかぐち あんご 取得中です。 佐藤栄太 さとう えいた 取得中です。 島津久基 しまづ ひさもと 取得中です。 白鳥庫吉 しらとり くらきち 取得中です。 鈴木 淳 すずき じゅん 取得中です。 鈴木三重吉 すずき みえきち 取得中です。 高村光太郎 たかむら こうたろう 取得中です。 武田祐吉 たけだ ゆうきち 取得中です。 竹久夢二 たけひさ ゆめじ 取得中です。 橘 純一 たちばな じゅんいち 取得中です。 田中貢太郎 たなか こうたろう 取得中です。 太宰治 だざい おさむ 取得中です。 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 取得中です。 寺田寅彦 てらだ とらひこ 取得中です。 徳永 直 とくなが すなお 取得中です。 内藤湖南 ないとう こなん 取得中です。 長岡半太郎 ながおか はんたろう 取得中です。 中山太郎 なかやま たろう 取得中です。 仁科芳雄 にしな よしお 取得中です。 浜田青陵 はまだ せいりょう 取得中です。 福井久蔵 ふくい きゅうぞう 取得中です。 藤田豊八 ふじた とよはち 取得中です。 堀 辰雄 ほり たつお 取得中です。 前川千帆 まえかわ せんぱん 取得中です。 三上於莵吉 みかみ おときち 取得中です。 水島爾保布 みずしま におう 取得中です。 水谷まさる みずたに まさる 取得中です。 宮沢賢治 みやざわ けんじ 取得中です。 宮本百合子 みやもと ゆりこ 取得中です。 紫式部 むらさきしきぶ 取得中です。 森 繁夫 もり しげお 取得中です。 森 鴎外 もり おうがい 取得中です。 森 林太郎 もり りんたろう 取得中です。 山本一清 やまもと いっせい 取得中です。 与謝野晶子 よさの あきこ 取得中です。 和田万吉 わだ まんきち 取得中です。 和辻哲郎 わつじ てつろう 取得中です。 魏徴 ぎちょう 取得中です。 沈約 しんやく 取得中です。 陳寿 ちんじゅ 取得中です。 范曄 はん よう 取得中です。 Louisa May Alcott オルコット,ルイザ・メイ 取得中です。 Arthur Conan Doyle ドイル,コナン 取得中です。 Jean Henri Fabre ファーブル,アンリ 取得中です。 Guy de Maupassant モーパッサン 取得中です。 Maurice Leblanc ルブラン,モーリス 取得中です。 ※ 単純なコード配列ソートの五十音順。 ※ 魏徴・沈約・陳寿・范曄の4名のみ移動。 2011.7.25:公開 2013.3.30:更新 目くそ鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - んん……、やっぱりこっちはNDC 分類のようにうまくいかないか。要一考。 -- しだ (2011-07-23 15 19 37) 除外ページを逐一記述するか、もしくは、元の記述に「著者」「訳者」みたいなフラッグを記すか…… -- しだ (2011-07-23 15 21 15) 除外ページの記述にちょこっと手を加えてヒットさせない、という手もあるか。 -- しだ (2011-07-23 15 23 12) ふむ。除外ページの全角スペースに半角を混浴させることでヒット回避成功。 -- しだ (2011-07-23 23 12 52) あとは、五十音順と没年順の2本立て、か。 -- しだ (2011-07-23 23 16 51) 現在、登録著者数60名。 -- しだ (2011-07-25 09 08 35) こういうのをオートポイエーシス(自己創出)といっていいんじゃないだろうか。おおむね成功。あとは初期ページの記述微調整を残す。 -- しだ (2011-07-25 09 13 38) ふーん、デフォルトで9件か。とりあえず20件にアップ。徳永直・喜田貞吉もOK。 -- しだ (2011-07-26 05 05 22) この半年で、伊波普猷・高村光太郎・長岡半太郎・仁科芳雄・前川千帆・ファーブル・大杉栄・伊藤野枝が新たに登録と。 -- しだ (2012-01-04 23 35 34) こちらも1年ぶりの更新です。宇野円空・有島武郎・伊藤左千夫・岡本綺堂・藤田豊八・鈴木三重吉・竹久夢二・堀 辰雄・今井半次郎、図版が水島爾保布・小村雪岱・岡 落葉・鈴木 淳、以上13名が新規登録。なんと男くさいミルクティーになったもんだ。。。 -- しだ (2013-03-30 15 48 47) 名前 コメント
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関東大震災アンソロジー 第二巻第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=39099 第三巻第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子 http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=269 file=milk_tea_3_40.zip 第三巻第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉 http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/142424 第三巻第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦 http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/145912 第四巻第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦 http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=338 file=milk_tea_4_36.zip 第四巻第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒 http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/193152 第四巻第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒 http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=342 file=milk_tea_4_40.zip 第四巻第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒 http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/195938 第四巻第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂 http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=346 file=milk_tea_4_44.zip 第五巻第六号 大震火災記 鈴木三重吉 http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/207405 第五巻第一一号 大正十二年九月一日の大震に際して(他)芥川龍之介 http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/210223 第五巻第三七号 恐怖について / 寺田先生と僕(他)海野十三 http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/226311 2013.6.1:公開 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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コロポックル(korpokkur)は、アイヌの伝承に登場する小人である。アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解される。アイヌ語では「p」と「b」の音を区別しないことから、コロボックルとも言われる。アイヌの小人伝説は広く北海道や南千島や樺太に流布しており名称もこのコロポックル・コロボックルのほかにトィチセウンクルとかトィチセコッチャカムィとかトンチ(これらはみな「竪穴に住む人」の意)というふうに呼ばれることもある。 伝説 アイヌ人の小人伝説は北海道や南千島、樺太に広く流布しており地域によって差もあるが大体次のようなものである。 アイヌがこの土地に住み始める前からこの土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。 彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが姿を見せることを極端に嫌っておりそれらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。 あるときあるアイヌの若者がコロポックルの姿を見ようとそのものを差し入れるを待ち伏せ、贈り物を差し入れるその手をつかんで屋内に引き入れてみたところ美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれている)。 コロボックルは青年の無礼に激怒し、以降アイヌの人々がコロボックルの姿を見ることはなくなった。現在でも土地のあちこちに残る竪穴や地面を掘ると出てくる石器や土器は彼らがかつてこの土地にいた名残である。 この伝説中地域によってたとえば「コロボックルは怠け者でアイヌが彼らに食べ物を与えていた」とか「コロボックルの手にあった刺青は捕らえたアイヌの人々が奪還を懼れて施したものであって元来からアイヌの風習である」という風な変化が見られる。 コロボックル論争 1886年(明治19年)、渡瀬庄三郎が『人類学会報告』創刊号にて札幌周辺に見られる竪穴住居の跡とみられるものがコロボックルの手によって作られたものであり、アイヌ人の前にコロボックルがかの地に居住していた証拠であるという旨の発表を行い、それに坪井正五郎が『人類学会報告』第9号にて大筋賛成という意見の表明を行った。しかし『人類学会報告』9号にはさらに白井光太郎による匿名での坪井への反論が掲載され以降、小金井良精・浜田耕作・佐藤伝蔵・鳥居龍蔵・喜田貞吉など多くの研究家がこの議論に参加した。結局この論争は1913年(大正2年)、坪井がロシアのペテルスブルクで客死、コロボックル実在説が衰えるまで続く。しかしこの論争はアイヌ研究学の方向を、アイヌ民族が先住民族でないという説(プレ=アイヌ説)からアイヌ民族こそ先住民族であるという説(アイヌ説)に持っていくこととなっただけでなく、広く日本の人類学や民俗学や考古学を飛躍的に発展させるに至ったのである。 コロボックルをテーマにした作品 1959年に佐藤さとるがコロポックルをテーマにした「だれも知らない小さな国」を出版。現在のコロポックルのイメージの礎となっている。この作品は「コロボックル物語」としてシリーズ化され、「豆つぶほどの小さないぬ」「星からおちた小さな人」「ふしぎな目をした男の子」などの続篇が書かれた。1973年には「冒険コロボックル」としてアニメ化もされている。
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皇国史観(こうこくしかん)は、日本国と日本人は歴代天皇を中心とした国造りが行われ、現代までに到る伝承と歴史が紡がれ継承されて来たとする歴史観。 第二次世界大戦以前 南北朝時代に南朝の北畠親房が南朝の正統性を示すために著した『神皇正統記』が先駆的なものであり、江戸時代に展開した水戸学や国学でその基礎が作られた。幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。 その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には早稲田大学教授津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。 19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を皇国史観によって記述していた。(国定教科書) 南北朝正閏論 1911年(明治44年)、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡以後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。 現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では南朝を正統と唱えていた。また幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。 第二次世界大戦後 戦後、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。 戦後の評価 肯定的意見 『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の伝統ある歴史を貶める「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。 否定的意見 永原慶二『皇国史観』(岩波ブックレット・1983年)は皇国史観を超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系」としている。 つくる会(自由主義史観)などの保守派について自慰史観または歴史修正主義とする立場から、神話と史実とを峻別せず、天皇や国家へ無批判であるとして「皇国史観の復活」だと批判する声もある。 関連項目 天皇制 大日本帝国 皇国 万世一系 八紘一宇 皇民化教育 平泉澄 熊沢天皇 三韓征伐 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月6日 (木) 21 28。
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M-Tea*3_25-ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治 2011.1.15 第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第三巻 第二五号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/112868) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (440KB) 定価:200円 p.124 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(2項目)p.23 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright is public domain. 飛び出せ! 週刊ミルクティー* 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。 「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。 「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」 「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」 「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」 「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」 「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」 「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。 「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」 3_25.rm (朗読:RealMedia 形式 236KB、1'53'') donguri.html (M-Tea* 現代表記版:html 形式) 宮沢賢治 みやざわ けんじ 1896-1933(明治29.8.27-昭和8.9.21) 詩人・童話作家。岩手県花巻生れ。盛岡高農卒。早く法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身。詩「春と修羅」「雨ニモマケズ」、童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など。 ◇参照:Wikipedia 宮沢賢治、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 底本 ドングリと山猫 底本:「注文の多い料理店」新潮文庫、新潮社 1990(平成2)年5月25日発行 1997(平成9)年5月10日17刷 初出:「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」盛岡市杜陵出版部・東京光原社 1924(大正13)年12月1日 http //www.aozora.gr.jp/cards/000081/card43752.html 雪渡り 底本:「注文の多い料理店」新潮文庫、新潮社 1990(平成2)年5月25日発行 1997(平成9)年5月10日17刷 初出:「愛国婦人」 1921(大正10)年12月号、1922(大正11)年1月号 http //www.aozora.gr.jp/cards/000081/card45679.html NDC 分類:K913.8(日本文学/小説.物語) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndck913.html スリーパーズ日記 戻ってお出(で)やるよ。 着物の胸(えり) まんまろ 以上三件、別版を参照したところ同一であることを確認。そのままにした。小狐と子狐の混用もそのままにした。 これから先の予定。 徳永 直『光をかかぐる人々・続』最終回 折口信夫「村で見た黒川能」「黒川能・観点の置き所」他 武田祐吉『古事記』 喜田貞吉「庄内と日高見」「春雪の出羽路の三日」 これでだいたい三〜四月になる見込み。鴎外『能久親王事跡』も早々に決着をつけたい。喜田『六十年之回顧』、伊波普猷、鳥居龍蔵、佐藤栄太、辻善之助……鳥居龍蔵の妻・きみ子(1959年死去)に『土俗学上より見たる蒙古』『黄金の盃』の大著がある。 これまでのペースでは年間にこなせる量に限界がある。いままで編集時間の半分を表記変更に費やし、残りの時間半分を事項と意味の確認、年表・地図作成に費やしている。表記変更以外を省略すれば生産ペースを上げることはできるが、それでは底本の字面を追っているだけで、たぶん自分に残るものはない。 事項・意味確認を最低限におさえること。 年表・地図作成について考えること。(=簡略化) 一年……とまでいわずとも三か月から半年ぐらいを一人の著者のみにあてれば、かなり効率もあがるか。バラエティには乏しくなる……。やりたいこと、読みたい本のしぼりこみをすること。エロDVDの鑑賞時間を半分にすること。 2011.1.15:公開 2011.1.19:更新 和敬清寂。 目くそ鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは日本の南北朝時代において南北のどちらが正統とするかの論争(閏はうるうと同じで「正統ではないが偽物ではない」の意)。 概要 近代以前の南北朝正閏論 近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。論者の主張は大きく南朝正統論、北朝正統論、両統対立論、両統並立論に分けられる。徳川光圀は徳川氏の祖とされた新田氏の正統性を示すため、「大日本史」で南朝を正統であると提示した。また同様に南朝正統論を支持した頼山陽は後小松天皇(北朝)は後亀山天皇(南朝)から禅譲を受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した(但し史実では神器帰還の儀式が行われたのみで禅譲の儀式は行われていない)。一方、当時の公家社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔であったために(多くは家督を巡って南北に分裂した)北朝正統論が強く、柳原紀光ら公家出身の歴史家の多くが北朝正統論を支持した、また皇室も永く現皇統につながる北朝を正統と考えていたとされ祭祀もその方針で行われていた。 南北朝正閏問題 明治の歴史学界では、南北朝時代に関して「太平記」の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて1903年(明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水での発言がこれに拍車をかけた。 そして、1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説に「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」という論が出され、これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り帝国議会での政治論争にまで発展した。 この問題を巡って野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。このため、政府は野党や世論に押され、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には「大日本史」の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ(ただし、現在の学説では北朝の光厳・光明・崇光の三帝は三種の神器を保有していたことがほぼ確実とみられ、神器の有無を根拠に北朝のすべてを「正統でない」とするのは無理である。なお、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされる)、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれる事となった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している(南北朝正閏問題)。 なお、明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであって、最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和談)ことまでを否定するものではなく、従って現在の北朝の天皇の正当性を否定するものではない。 以後、戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏を天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。 第二次世界大戦後における南北朝時代を巡る議論 第二次世界大戦後も南朝が正統とされているが、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」としての性格が研究されるようになり、後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇独裁を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。 網野善彦は職能民など非農民層に着目し、南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。また、太平洋戦争後には、熊沢寛道に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した。ただし血統的には、大覚寺統より持明院統が嫡流で、持明院統の中でも伏見宮家が、その嫡流にあたることから、現皇室の血筋が最も尊いとされている。 関連項目 南北朝時代 (日本) 明治政府の修史事業 - 久米邦武筆禍事件 中島久万吉 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月6日 (土) 16 01。
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ゆかりの寺社(御朱印視点) 引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。 【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 奈良県 與喜天満神社 桜井市初瀬14 初降臨 【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 鳥取県 青龍寺 八頭郡八頭町下門尾46 白兎 鳥取県 土師百井神社(白兎神社) 八頭郡八頭町土師百井111 白兎 鳥取県 福本白兎神社 八頭郡八頭町福本 白兎 【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。 都道府県 寺社名 所在地 備考 岐阜県 恵那山 中津川市中津川 胞衣 三重県 珍布峠 松阪市飯高町赤桶 天児屋根命 島根県 隠岐諸島 隠岐諸島 隠岐 恵那山 古くは胞衣山(胞山)と呼ばれ、また角度により船を伏せたように見える事から舟覆伏山 (ふなふせやま) などとも呼ばれた。松平君山の吉蘇志略で「天照大神がここで降誕され、その胞衣(えな)がこの山に埋められた」と記載されており、これが山名の由来とされている。信州側では「野熊山」とも呼ばれていた。 Wikipedia 珍布峠 素掘りの切り通しになっている「珍布峠」。天照大神(あまてらすおおみかみ)と天児屋根命(あまのこやねのみこと)が出会ったといわれる場所で、この2神による“国分け伝説”の史跡です。夏には清涼な川風が吹き抜けます。 道の駅 飯高駅 與喜天満神社 與喜山は、古くは大泊瀬山と呼ばれ、古代大和の国では最初に太陽の昇る神聖な山としてあがめられました。『万葉集』では初瀬(長谷)にかかる枕詞「隠り国」一山に囲まれ隠っているような地一は、この自然お姿から生まれたのです。 万物の生命のみなもとである太陽と、母なる慈愛を神としてあがめたのがアマテラスという女性神で、天上からこのお山にはじめて降臨されたと伝えられています。 現在の本殿の向かって左に古代信仰のままに磐座(鵝形石)に祭られているのが天照大神で、女性の守護神として信仰されています。 一またその後方の鍋倉山には、延喜式式内社の鍋倉神社が磐座に祭られています。 ご祭神は大倉姫神、別名・下照姫と申し上げ、『古事記』の世界では大国主命の娘で、その美しさは、衣を通して地を照らすほどであったといいます。天武天皇は、皇女の大来皇女を伊勢神宮の斎王とするために、この地に泊瀬斎宮という潔斎の施設を設けたことが、『日本書紀』に記されています(天武天皇二年四月<673年>)。 皇女がこの地で潔斎を経て、伊勢に向かうのは、初瀬が伊勢神宮の信仰の出発点と見られていたからではないでしょうか。 その太陽信仰の原点が與喜山に伝承していることからも、泊瀬斎宮は禊ぎの川、初瀬川を帯に巻いたような神聖な與喜山にあったと考えられます。当山にはこのような女性神の信仰が古代から息づいていたのです。 與喜天満神社 隠岐 隠岐島は『古事記』『日本書紀』に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)2神が4番目にお生みになった土地で、「隠岐の三子洲(みつこしま)」と書かれている。「隠岐の三子洲」とは、島後(どうご)が親島で、島前(どうぜん)の知夫里島、西ノ島、中ノ島が子島であって、親島に率いられた三つの子島の意味であるという。『記紀』には、隠岐の地名由来は書かれていないが、喜田貞吉博士によると、島前3島に対して、島後は沖の島と呼ばれていて、島前、島後の四つの島の総称として、主島である沖の島の名をとってオキの島と呼称されるようになったという。別に、伝承として天照大神(あまてらすおおみかみ)が、この島の40余丈もある木をごらんになって、「美しき御木だ」といわれたことから、御木(おき)とついたとも語り伝えられている。島後が島前の三つの島より沖合にあるため沖の島と呼ばれ、それに天照大神の「御木」の伝承が付加され、ついで、島全体の名称として沖の島が呼び名となったのだろう。しかし、なぜ「隠岐」の字をあてるようになったか定かではない。 しまね観光ナビ 青龍寺・白兎神社 鳥取県因幡の八上郡には、天照大神がこの地にしばらくの間行宮する際、白兎が現れて天照大神の裾を銜(くわ)えて、行宮にふさわしい地として、現在も八頭町と鳥取市河原町の境にある伊勢ヶ平(いせがなる)にまで案内し、そこで姿を消したとされる。八頭町の青龍寺の城光寺縁起と土師百井(はじももい)の慈住寺記録には、天照大神が国見の際、伊勢ヶ平付近にある御冠石(みこいわ)に冠を置いたという伝承が残っている。この伝承と関連して八頭町に3つの白兎神社が存在し、八頭町米岡にある神社は元は伊勢ヶ平にあった社を遷座したものと伝えられるが、の具体的な伝承に基づく全国的に見ても極めて珍しい神社である。 Wikipedia
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M-Tea*3_30-現代語訳『古事記』(一)武田祐吉 2011.2.19 第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一) 序・上巻(前編) 武田祐吉(訳) 古事記 上の巻 序文 過去の時代(序文の第一段) 『古事記』の企画(序文の第二段) 『古事記』の成立(序文の第三段) 『古事記』の成立(序文の第三段) 一、イザナギの命とイザナミの命 天地のはじめ 島々の生成 神々の生成 黄泉の国 身禊 二、アマテラス大神とスサノオの命 誓約 天の岩戸 三、スサノオの命 穀物の種 八俣の大蛇 系譜 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第三巻 第三〇号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/123670) ※ クリックすると購入サイトへジャンプします。 (640KB) 定価:200円 p.163 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(127項目)p.423 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて校正中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. ひきこもれ! 週刊ミルクティー* スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。 肥の川 ひのかわ 斐伊川(ひいかわ)。 鳥髪 とりかみ 鳥上。現、船通山。島根県横田町と鳥取県日野郡日南町との県境にまたがる山で標高1142.5m。古代から出雲・伯耆の国境をなす。(歴史地名) 高志 こし 越の国。北陸道の古称。 3_30.rm (朗読:RealMedia 形式 428KB、3'28'') milk_tea_3_30.html (html ソーステキスト版 236KB) 武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29) 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究—帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。 ◇参照:Wikipedia 武田祐吉、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。 底本 底本:「古事記」角川文庫、角川書店 1956(昭和31)年5月20日初版発行 1965(昭和40)年9月20日20版発行 底本の親本:「眞福寺本」 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html NDC 分類:164(宗教/神話.神話学) http //yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html スリーパーズ日記 川崎利夫『出羽の遺跡を歩く』(高志書院、2001.2)読了。こちらは旧石器捏造事件発覚後の著述。安田喜憲、阿部正己、喜田貞吉らの名前も出てくる。本書によれば、西日本にみられる青銅の銅鐸や銅剣や銅鉾が県内で発掘された例はないらしい。ところが、鳳凰の頭を柄にもつ鉄製の環頭太刀(かんとうたち)、十八振の蕨手刀(わらびてとう)、そして羽黒山鏡ヶ池から六〇〇面近い銅鏡が出土している。 『ず・ぼん』16号(ポット出版、2011.1)読了。シジュウカラの初鳴き。 2011.2.20:公開 2011.2.22:更新 コシの八俣のオロチョン。 目くそ鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 『古事記』は NDC 分類の 913(日本文学)だろうかとも思いましたが、今回は 164(宗教/神話.神話学)に分類してみました。リンク先がエラーになるのは、登録作品がいまのところ青空本体にないためです。 -- しだ (2011-02-25 03 03 34) 名前 コメント